昭和42年01月30日 朝の御理解



 信心も山登りも同じだ。信心は一生が修行じゃと、その、というふうに教えて下さるんですが、その一生が修行じゃと言う事が、その、一生が苦労じゃということであったり、ただ本当に信心が山登りのようにきついばっかりであったら、とてもよう信心は続きません、また、それではおかげは受けられないと思うんです、ね。もう本当に一生が修行じゃということが有り難いことが分からなければ、または、山登りをさせて頂くということがこんなにも楽しいものだということが、ね、
 体験され、味おうていかれなかったら、ただ山登りと同じと言うて、山登りが楽なことであるはずがない 急な坂道でも登る時でも、それこそ、青いきといきというごたる、そういうことばかりが続くものだ、そういうもんなんだと信心だったら、それはもう、私はこんなにじゅつ内ことはないと、ああこれだけは死ぬまでこげんなん修行ばせなんならんというごたるだったら、もうこんなに、私は難儀な事はないと思う。
 これはまあ私の、私のことですからまた私共ぐらいなことではない、高い高い信心の境地を開いた人達はもっと素晴らしいことであろうと思うのです。私共でもそう思うのです。ね、私が例えば70まで長生きをする80まで、長生きをするいわゆる90までも長生きをする、それはわからんけれども私は健康というて、別に健康と言う事はないけれども、ここに座っておくということだけの健康が保たれるならばです。
 もう 私はおそらくこの御結界はずれないだろうと思うのです。いわゆる、それは願いでもある、楽しみでもあるのです。ね。ずうっと1日座っておらねばならない、温泉にも行かれん、芝居にも行かれん、ただ座っとるだけ、それが、死ぬまで続けらっしゃる、もうまるっきりもう一生を監獄で終わるようなわけ、ものなんですからね、いうならば、そういう願い、そういう思いと言うものはない。
 芝居が見たいばっかりにここで辛抱しとる、たまには温泉に行く事が楽しみにとただそれだけを楽しみに、いわゆるここで修行させて頂くというなら、それはじゅつなし事だと思うのですね。というてなら温泉に行かんのじゃない、芝居見に行かんのじゃない、許されることはまた別なんだ。山登りをするのに本当にきついきついという本当に山登りのごときついことはなかとね、ところが山登りのごと楽しい事はない、ね、
 それは、どう言う所にそういう風に違いが出てくるんだろうか、私は思うのですけれども、これは御道の信心だけに限った事はありますまいけれども、信心をさせて頂いておる人達がです、ね、その信心の、いわば、山登りの楽しみと言うものを感じずに、ただ、黙々としてから自分の足元ばっかりを見てずうっと山道を登っておかなければならないというようなことだったら、私は、いわゆるじゅつないけれども。
 そういう人達が実を言うたら多いのじゃなかろうか、何十年間信心を続けておりますと、いっこうによかこつもありまっせんと、ばってんやめはきらん、山登りは続けておる。ね。驚きの時はもう、目の前が真っ暗になるごたる、闇たるたる私は、その、生き方だと思うんですね。希望もなからなければ、楽しみもない、喜びもない、ただ、黙々とただ歩いておると、ただ、山登りのきつさを味おうておるというだけである。
 山登りなら山登りの楽しみがある、ね、その山登りの修行であるならばです、こう言う楽しいことであるならば、私は山登りはまた楽しみであり、これがまあ一生続いてもです、ね、一生続いてもその極めていく所の信心と言うものが有り難い、楽しい事になってくるのですから、ね、こりゃこの調子で登っていきゃ、ね、金光大明神なら金光大明神の頂上にも登れるぞとそれを極めたら今度は金光大神の山にも登れるぞと、ね、
 というような楽しみがあるから、私共でもそげん思うです。もう私はおそらく一生一生涯です、私が強い限りです、私はそれこそ、痛いことがその痒いというように、不健康、健康をいよいよ頂ききらずに寝とかなければならんというなら別ですけれども、お許しを頂けてから私はいうなら、座っておることで、よしこの足が萎えてたたなくてもです、座っておることに不自由しないならばです。
 おそらく私は一生涯、それこそ、願ってでも頼まんでもここに座らせてもらうだろう、なぜかと言うとそこん所に楽しみと、喜びと、希望がいつも心の中にあるからです。それは馬鹿と言うかもしれません、私は金光大神を目指しておるなんていうたら笑う人がおるかも知れんけれども、目指す所はそこなんだもの、はっきりそこに頂上が見えてるんだ、もうそこに登っておる人がたくさんあるんだ。ね。
 下からながめてから、とてもあげん所には登られんと思うたんではですね、私は、そういう信心では楽しみがない、ね、お互い一つめいめいに、信心に希望を持たなければいけません。それこそお家立派な普請をする。私一生一代の内、この普請だけはいっちょおかげを頂きたい、普請が済むまでは一生懸命その、金が百万円貯まるまでは、いや借金払いが出来るまではと、なるほど、それも一つの目指しではあります。
 けれども、その目指しというのがです、やはり美しいもの尊いもの、いやもう形にとらわれたもんじゃない、心のもの、というようにその目指しもまた変わって来なければ楽しみはない。一生商売繁盛の為に参り続けたって言うなことだけではつまらん、ね、ですから、そこん所の願いと言うものをです、段々高度なものに変わって行かなければならん。私はただの信心の願いと言うものが変わっていきよるだろうか、ね、
 おやつを貰うための楽しみに一生懸命、親の手伝いをする。ね。例えば、子供がおもちゃを買うて貰ったり、おやつを買うて貰ったりすることだけの楽しみ、ね、そういう、もし時代がです、いわば、5か6ぐらいな状態の信心がもし続いたとしたら、ほら、おかしいですね、何十年たっとる、ただおかげのことだけしか思よらん、ね、もう、いわば、働いて金を儲かると言うことが楽しみならです。
 もう働くことその事もまた楽しゅう、楽しいと言うようなです、ふうに、その人が心の上にも成長して来なかったら、体の上でも成長のおかげを頂かなかったら、それはおかしいように、私共の信心も始めの間はです、本当にあの小さい目指しが、目的で信心をはじめたけれども段々その目指しが変わってきたと、ね、それはどういう中からでもですね、どういう中からでも体験を頂かれます。  
 信心の有り難さを味わうことが出来ます、けれども、その願いが高度になればなるほど、その頂く取り組みと言うものが、また変わってまいります。 山登りを例えば、あの峠を登るまではとか、と言う目指しなしに、ただ一生懸命山登りをしておるだけであったら、こんなに、いわば、じゅつないことはない。一生が修行じゃと仰るが、その一生が修行を甘んじておれると言う事は、これはじゅつないことだ。
 そうさせて貰うことが楽しみであり、喜びであり、しかも、心の上に一段一段と信心が進んでいき、信心が成長していくという事がです、自分にもはっきり分からせて頂いてから有り難い。私はその思うのですけれども、例えば信心辛抱梅の花、その梅の花が咲く、やがてうぐいすが来て止まる、うぐいすもさって梅の花が散る、後には、あぁいう、実が穂、その実が、今度は打ち落とされる。
 そして、しそになじんで、あぁした梅ぼしというものが出来る。そこのどこを通っておるか、そこの全部が私共の信心の中になからなきゃいかんと思うです。はあ、うちは今もう、うぐいすがきて鶯の声を聞きよる所だけ、そんなことはないですね、片一方にはうぐいすの声を聞きながらです、もう一つの信心はもう荒れもの時代であり、しそとなじんでおる時であり、いいや、まだ信心辛抱しておるところであり。
 いわゆる、まだ花がつぼんでおる所であり、咲いた所があるのである。というようなものがです私共の、例えば、一日なら一日の中にでも信心の一つの時代なら、その時代の中に様々な所があらなければならないと私は思うのです。でなかつたら信心をやっていけんです、信心辛抱とこばかりであったら、というて、うぐいすばかり聞いておる、聞いておるようなことばかりであったら、ぼうけてしまうです人間は、ね、
 一日の内でも、はぁここがうぐいすがきて止まっておるところでもあろうか、ここが辛抱しよる、しぬかせて頂けるところでもあろうか、ここでようやく梅の花が咲きほころんでおるところではなかろうかと、もうここそ、しそとなじんで一番難儀なところじゃなかろうかと、ね、これが、もうだんだん信心のおかげを頂きよったら、これがお徳というものではなかろうか。
 これは梅干になっとるところじゃなかろうかというようなものを心に感じれれるものがなかったら、私は本当な事じゃないと。ね。今はただ信心辛抱しておるところだけだと言うておる人でもです、すぐそこの中に、やはり、うぐいすの声も聞いたり、また、梅の花がいっぱい咲いておるところをではなかろうかというようなものを感じるから、私は信心は続けていかれると思うのです。
 昨夜もう皆さんが、帰られたのが、昨日はもう11時頃にみんな帰っておられた、ですから、自然とストーブのそばで家族の者達が集まって、私と家内、それから、二番目の愛子と、それから妹とそこでまたしばらく信心話。もう信心話させて頂きよりますと、もうそれこそ時間のたつのを忘れて、あらもう12時になる、はよ休まなん、そんなら、今朝の御理解ばもういっぺん頂いてから休もうかというて。
 また、今日の朝の御理解をテープで頂かせてもらう。そしてからまた、その、本当にもう有り難いもんだなと、有り難いことだなと、こう言う風にして、私共が日々信心のお育てを頂いておるという事がです、有り難い。というて、まあ、休ませて頂いたんですけれどもね。私自身がです、やはり、信心話をさせて頂くことの楽しみ、例えば昨日一日なら一日の中にもです、咲いておる時もあったら、散っておる所もあった。
 または、しそです、これがしそといったような、なじむ所であろうかというところも頂いて、様々なところを頂かせてもらって、そこから、確かに体験が生まれておる。昨日は朝の御理解を頂いてから、あの自分の心の中に行じ抜かせて頂きよったら、こう言うような体験が生まれてきた、神様は打てば響くごたある、そういう楽しみがあるから修行がまた有り難いのである。ね。
 それで、今はもう、それこで済んだと言うのじゃない、やっぱり、ならもういっぺん最後に昨日の御理解を頂いて休もうかというて、今朝の朝の御理解を頂いて休ませて頂く。そこん所の、その一つの信心の味わいというか、楽しみと言うものがです・・・、ね。そういう風に信心を楽しませてもらえれる、味おうていけれる、信心じゃなかったらですね、本当にもう、ねむかばってん、こういった御理解ば頂かにゃならん。
 この苦しさであったらですねお参りすることがですね、寒い辛いを感じたんです、であったら私はそれはもう、希望のない信心だと私は思うのです。ね。願いがあり希望があり、しかもそういう段々私共の心の中に、段々高度な信心に進んでいくと言う事がです、ね、7合目まで登りゃ、7合目だけの景色が眺められる、8合目に登りゃ、8合だけの視野が広がる本当にこれが。
 頂上を極めたらどういう素晴らしい所に出会うんだろうかと言う願いや、思いやらがあるから、私は修行が楽しいと、信心が有り難いと思う、ね、そういう楽しみもなしにです、ただ、ああ黙々と山を登っていかなくちゃならない、その、また、青息吐息で山を登らなければならない、だけのことであったら信心はじゅつないことだとこう思うんです。だから、いつまでとか、かつまでとかというものじゃありません。
 信心と言うものはもう限りなく進めて行きたいものである、ね、私共がなんぼ年をとらせて頂いても、お許しを頂く限りはです、やはり、私共はこの御結界を、本当に死守するというと、大変厳しいようですけれどもです、それが楽しみなんです、それが願いなんです、それが有り難いんです、それがあと少しづつでも7合目から8合目登らせて頂くものを自分で感じますから。
 これがもし頂上を極めたらどういう素晴らしいことになるだろうかという、その楽しみがあるからなんです、ですから、もう今朝頂いた御理解はも今夜頂かんでよかということはない、もういっぺん頂いて休もうかというような私はおかげが頂けるのじゃなかろうかとこう思うのです。ね。はぁほんに今朝、頂いたときには、そこに気付かなかったけれど、今晩頂いたら、本当に、あそこんところを分かり有り難いと。
 あぁそこんところを今日はぬけとったというようふうにです、心の中に、練らせてもらい、家族中で共励させてもらえれる、そして、それが明日の信心の、いわば、また、元にもなるようなおかげが受けられる。どうぞひとつ信心はそういう意味でですね、楽しいもの、有り難いものに信心修行がなってこなければならんと思うのですね。どうぞ、今日は私、御神前に出らせて頂いてからですね。
 もうこうひっつきべったりしてからですね、人ば、人ば一生懸命でもう、上の方にこう帯び、目の前にいきよる人の帯をつかまえたようにしてですね何か坂道を一生懸命登っていきよる、何も上にはない、もう前に登っておる人の足だけしか見えないといったような感じなんです。もう、私、横から見てからきつかろうとこう言うような感じなんです。前に登っとる人の足元だけしか見えてない、ね、
 そういう信心では、私はきつい、ね、だから、7合目んでん、8合目でん、ね、でるたんびんにそこに、視野が広がってくると言う楽しみと言うものがです、もう登ることその事の中に楽しみが頂ける、為には、そういう、私は希望の場というものに出て行かなければならない、かといって、なら、先ほども申しますように、ね、信心辛抱梅の花やがてうぐいす来て止まるという。
 その、やがてというけれども、それが一日の中にです、その、すべてがあるんだと言う事です、信心とは。梅の花ば眺め取る時ばかりじゃなかって、今の信心辛抱のところもありゃ、うぐいすが来て止まってさえずよるところもありゃですね、様々なものが一日の中にあるものだと、だからこそ、実は信心は楽しいものだということをですね、一つ分からせて頂いたら有り難いと思うのです。
   どうぞ。